日本文化
第三章 平安時代
第一節 平安京
(一)平安京
長岡遷都 奈良時代末期には、南都六宗という仏教集団が政治に大きく介入するようになっていた。そこで桓武天皇は、平城京を捨てることを決意する。まず784(延暦3)年、長岡京が建設された。しかし、重臣の暗殺事件に連座して、弟の早良親王(750?-785)を流罪にしなくてはならなくなった。早良親王は流刑地で憤死し、桓武天皇は衝撃を受けた。早良親王の関連する事件も起こり、長岡京は10年で廃都された。
平安遷都 794年に改めて平安京に遷都する。これが現在の京都市である。しかし、平安京は、未完成の都でもあった。桓武天皇の晩年、民衆の負担を理由に工事が中断されたのである。
なお、この後、1869(明治2)年に東京に遷るまで、平安京が日本の都であった。この事から京都のことを「千年の都」ともいう。
(二)最澄と空海
密教 桓武天皇は鎮護国家思想を捨てたわけではないため、南都六宗に代わる仏教を求めた。そこで登場するのが、最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)である。
最澄と空海は804(延暦23)年、遣唐使船に乗り唐に留学した。当時、唐への留学期間は20年と定められていた。しかし、天才であった二人に、そのような長い時間は必要無かった。最澄は1年、空海は2年で日本に帰国する。そして、最澄は比叡山延暦寺に天台宗を開き、空
学習ポイント
1. 平安時代の仏教
2. 貴族社会と国風文化
3. 古典文学
4. 武士の誕生と地方文化
海は高野山金剛峯寺に真言宗を開いた。2宗とも密教系であったため、平安時代の仏教は密教が盛んになっていき、現世利益のための加持祈祷が盛んに行われていった。また、呪術的な側面は民間の土着信仰とも融合し、修験道を発展させていった。
天台宗 比叡山はこの後、日本仏教の中心地になっていく。この後の時代に新宗派を開いた者のほとんどは、比叡山出身である。これは最澄が唐から持ち帰った仏教が、様々な要素を内包していた雑密であったことも関係している。
最澄は、当初は空海と親交を結び、次々と空海から経典を借りて密教を勉強していった。しかし、やがて空海から、文章ではなく実践修業によって勉強するよう言われ、絶縁状態になった。
また、延暦寺は都に隣接していたため、政治に強い影響を持っていった。
真言宗 高野山は都から離れた山奥にあったので、政治とは一定の距離を置いている。もちろん、無関係というわけではなく、京都の東寺は空海に与えられた寺院である。空海は灌漑施設の建設や湯泉の発見伝承など、民間での活躍を主にしている。また、日本初の私立学校とされる種智院を開設している。当時は中央に大学、地方に国学があったが、これは貴族や地方豪族が学ぶ場所で、目的は官僚の育成であった。しかし、空海は民衆の教育機関を設立したのである。こうしたことから、「いろは歌」の作者とする伝説ができている。
また、空海は、嵯峨天皇(786-842)・橘逸勢(782?-842)と合わせて日本三筆と称される能書家でもあった。王羲之や顔真卿の影響を受けている。
(三)弘仁・貞観文化
漢学 最澄や空海が活躍した時代に栄えた文化を、弘仁・貞観文化という。平安初期は唐文化色が一層強まった時代で、漢学が盛んであった。平安貴族が特に愛好したのが白氏文集で、今も日本には『白氏文集』の古写本が数多く伝えられている。また、このころに勅撰漢詩集『凌雲集』1巻や空海の漢文集『性霊集』10巻が編纂されている。891(寛平3)年には『日本国見在書目録』10巻が編纂されている。これは遣唐使によって日本にもたらされていた漢籍を、経・史・子・集の四部分類で整理したものである。
本地垂迹説 神仏習合もさらに加速していった。奈良時代の中期頃から神社の境内には神宮寺が建てられ、神前で読経されることが普通になった。こうした状態は明治政府による神仏分離まで続いていく。なお、伊勢神宮にも神宮寺が作られたが、すぐに消滅している。本地垂迹説によって天照大神は大日如来の化身とされていたのだが、伊勢神宮は仏教による侵食に対して頑強に抵抗したらしい。
(四)菅原道真と祟り
摂関政治 平安時代も相変わらず陰湿な政争が行われていた。摂政・関白として政治をほしいままにした藤原氏も、兄弟間の権力争いが常習化していた。藤原氏は娘を天皇の后にし、その娘が生んだ子を次の天皇にすることで、外戚として強い権勢を振るった。これを摂関政治と呼ぶ。そして、有力な対抗者は謀殺によって追いやっていった。
菅原道真 藤原氏による有名な犠牲者が菅原道真(845-903)である。漢学界の家系に生まれた道真は、その才覚から早くも宇多天皇(867-931)に目を掛けられ、重用されている。そして、894年には遣唐使の中止を主張した。唐朝が衰退して混乱していたことと、もう充分に唐の文化を学んだということがその理由である。しかし、実はこの時、道真が遣唐大使に任命されている。当時の航海技術では、唐に行くのは命がけであった。だから道真は唐に行きたくなかったから中止させた
とも言われている。
道真は醍醐天皇(885-930)にも重用され、更に出世していった。しかし、藤原時平(871-909)の讒言によって太宰府に左遷され、903(延喜3)年に失意のうちに亡くなった。
それから間も無くして、道真の左遷に関係した人物が次々と死んでいった。そして、930(延長8)年、醍醐天皇がいた清涼殿で太政官の会議をしていた時、雷が清涼殿を直撃して大惨事になった。そして、醍醐天皇も3ヶ月後に崩御する。これは道真の祟りであり、道真は死後に雷神になられたのではないかと恐れられた。
こうして道真の怨霊を鎮めるために、北野天満宮が創建され、道真は神として祀られたことになった。道真が学者であったことから、現在でも学問の神として受験生に人気がある。なお、天満宮と言えば梅林が有名である。これは道真がこよなく梅を愛していたからである。
(五)極楽浄土
浄土教 祟りを恐れる風潮によって、現世利益よりも来世の幸福を願うようになった。こうして死後に極楽へ行くことを願う浄土教が盛んになった。平安時代にも最も権勢を振るった人物として、藤原道長(966-1028)を挙げる事もある。娘を四人も入内させて外戚として権勢を振るい、摂関政治の頂点を極めた人物である。道長は「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けることもなしと思えば(この世界は私のものだ。満月が欠けていないようにである)」という歌が有名である。しかし、その道長であっても、最期は自分の極楽浄土だけを願いながら没する。
平等院 道長の子頼通(992-1074)も権力を握った人物である。その頼通が極楽浄土に行くために造ったのが、平等院である。現在は鳳凰堂を残すのみだが、当時の豪華絢爛な王朝文化を彷彿とさせる。鳳凰堂の木造阿弥陀如来坐像はこの時代を代表する仏像で、優美で柔和な表情をしている。権力争いに明け暮れた貴族たちは、こうし
た慈愛に満ちた仏の救済を願っていたのである。極楽浄土の思想は、次第に庶民にも広まっていった。民間で布教した空也(903-972)は、市聖とたたえられている。
陰陽道 安倍晴明(921?-1005)に代表される陰陽師も、怨霊の存在が広まったからこそ発達したものである。中国から伝来した暦法・天文・陰陽五行説・讖緯学は、土着の信仰と融合し、災いを防ぐための占術として体系がつくられていったのである。
第二節 国風文化
(一)服装と建築
国風文化の誕生 外国文化の受容が起きる場合、その反動も存在する。すでに奈良時代のころから、日本土着の風習や精神を、先進文化である中国文化と融和させようとする動きがある。そうした動きは遣唐使の停止が契機となり、国風文化を発達させていった。
服飾 貴族の服装は唐風のものから変化し、男の礼服として束帯や普段着の狩衣がある。そして、女の女房装束には女房装束(十二単)が有名である。色彩鮮やかな女房装束は、実際には極めて不便な服装で、重量は20キロほどもある。束帯や十二単は現在でも天皇や皇族の正装になっている。また、狩衣は神職や普段の衣装として使われているし、礼装はこのころの貴族の衣装である。
建築 建築様式には貴族の屋敷の、寝殿造りが誕生した。寝殿を中心に北・東・西に建物を張り巡らし、南に池を作って庭園を設けている。建物に外壁はなく、開放式であった。
こうした寝殿造りの屋敷の襖や屏風にかいた大和絵で飾られていた。大和絵は、遠くのものほど上に書く。日本人が大小による遠近法を知るのは、江戸時代のことである。
(二)文字
平仮名 国風文化を背景にして、平仮名が誕生した。平仮名は、もともとは漢字である。それを草書体にし、さらに崩していくことで、平仮名の形が確定していった。ただし、平仮名の形が確定したのは、実は大正時代である。平仮名は漢字の崩し字であるから、どこまで崩すかは人によって違うし、また異なった漢字をもとにした全く違う字形なども存在したからである。
ところで、「平仮名」の「仮名」とは、「真名」に対する名称である。「真名」とは漢字のことで、当時は漢文が公式の文章とされていた。現代の日本語でも硬い文章に漢字が多いのは、これが理由である。
だから、当時は漢文の素養が必要とされていたし、漢文を書けることが当時の教養であった。平安時代に花開いた王朝文学に女性作者が多いのも、平仮名は女性の文字というイメージがあったからである。
ただし、男性も平仮名を使う必要があった。当時の恋愛は、女性に和歌を贈ることに始まる。そして、女性は漢字の教養が低かったので、男性も和歌を平仮名で書かなければならなかったのである。
片仮名 片仮名は僧侶が漢字を崩した字である。ただ、こちらは漢字の字形の一部分を取り出す形で作られていった。当初は漢文を読む時に使ったのだが、現代でも漢文を読む時に読むように使われている。例えば、原文に書き込む送り仮名などで書く。片仮名は、鎌倉時代には現在の形式になっていたらしい。
漢文訓読 漢文訓読とは、日本で行われた古典中国語の読解方法である。奈良時代以前、中国から漢字が伝わったころは、基本的に中国語として読んでいたらしい。ところが次第に漢文を日本語として読むようになっていった。例えば「有朋自遠方来、不亦楽乎。」を「朋の遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」というように、語順を変えて、書き下してしまったのである。
こうした漢文訓読は、日本語の発達にも大きな影響を与えている
し、現在でも学校教育で漢文訓読を教えている。また、現代の日本人がイメージする「中国っぽい」文章も、漢文訓読調である。
(三)王朝文学
古今和歌集 仮名による文学としては、905(延喜5)年に初の勅撰和歌集『古今和歌集』が紀貫之(866?-945?)によって編集されている。貫之は序文で歌論を論じているが、そこでは『毛詩』の六義が参考になっている。この『古今和歌集』以後、歴代天皇が勅撰和歌集を編纂することが慣例になっている。
ところで、貫之は遊び心のある人物だったようで、『土佐日記』という紀行文ではジョークなどが多い。こうした精神は、王朝文学に大きな影響を与えたと言われている。
物語 王朝文学の中でも傑作とされるのは、紫式部(976?-1016?)の『源氏物語』であろう。紫式部は道長の娘の彰子(一条天皇の中宮)に仕えていた。『源氏物語』は当時から大人気だったようで、一条天皇(980-1011)が大絶賛したり、道長が紫式部の部屋に忍び込んで草稿を持って行ってしまったりした。紫式部は道長の愛人だったとも言われている。
他にも月の王女かぐや姫を主人公にした伝奇小説『竹取物語』や、平安後期のものだが、男女を逆にして子供を育てた『とりかへばや物語』など、想像力豊かな物語が書かれている。
随筆・日記 物語以外にも、清少納言(966-1025?)の随筆『枕草子』、紫式部の『紫式部日記』などがある。紫式部が清少納言を馬鹿にしたり、清少納言が紫式部の文を批判していたりする。日記の中には夫婦生活の愚痴を書いた『蜻蛉日記』や、自分の恋愛について書いた『和泉式部日記』など、当時の貴族女性の心情を生々しく伝えるものも多い。
第三節 古代国家の崩壊
(一)武士の興隆
院政 外祖父に藤原氏を持たない後三条天皇(1034-1073)が即位したことで、摂関政治も徐々に衰えていった。続く白河天皇(1053-1129)は、8歳の堀河天皇(1079-1107)に譲位して、上皇として政治を行った。上皇の住んだ場所を院というので、これを院政という。また、上皇は出家していたので、法皇ともいう。
この後、位を退いた法皇が政治を行うのが慣例になる。天皇の立場には様々な制約があるため、より自由な身で活動したのである。院政は独裁的であったために、政治はますます混乱していった。
なお、後の武士政権でも、武士は早目に地位を後継者に譲って、自分は先代として実権を持ち続けることが慣例である。このような習慣は、世界史的にも珍しい。
武士の誕生 武士の起源はよく分かっていないが、武士のことを「侍」ともいう。「さぶらふ(貴人に仕える)」という言葉から来たらしく、もとは下級官吏だったらしい。下級官吏のうち、軍事に従事する者たちが集団化し、やがて貴族の子孫を頭領にして武士団を作っていった。やがて源氏と平氏という二大勢力に統合されていく。「源」・「平」とは、臣籍降下した皇族に与えられた姓である。
平氏政権 やがて平清盛(1118-1181)が平氏政権を築いた。平氏は「平家に非ずんば人にあらず(平氏でなければ人間ではない)」というほどの栄花を誇る。この平氏政権の経済基盤は、中国の新王朝である宋との私貿易であった。日本は宋から、陶磁器や絹織物、書籍や絵画、そして宋銭などを輸入していた。この宋銭は日本で流通し、日本の貨幣経済の確立に寄与している。対して日本からは、硫黄や木材などの鉱物、そして扇子や日本刀などを輸出していた。
源平合戦 平氏は源頼朝(1147-1199)によって滅ぼされる。この源氏と平氏の争いは源平合戦と呼ばれている。現在の日本では2グループに分かれる時、紅白歌合戦のように紅組・白組に別れる。この起源は、源氏が白旗、平氏が紅旗を用いたことだと言われている。
武士の風習 当初の武士には、いわゆる「武士道」という精神は存在していない。このころは力こそが正義であったし、一族を守るために寝返りや裏切りも日常茶飯事であった。
ただし、武士道の柱になる名誉という概念は、すでに存在していた。当時の合戦は、「やあやあ我こそは……」と名乗りを上げてから行うものであった。相手の名乗りが終わらないうちに攻撃をすることは、卑怯とされていたのである。
判官贔屓 「判官贔屓」という言葉も生まれている。判官とは源義経(1159-1189)を指す。義経は平氏討伐で大活躍をするが、兄の頼朝に嫌われ、逃亡の日々を送り、ついに殺されてしまう。こうした弱く虐げられたものに同情して援助するのが判官贔屓である。
(二)国風文化の普及
末法思想 院政期は社会の混乱もあって、世界の滅亡が近いと考える末法思想が流行した。社会の乱れは仏教にも影響を与え、寺院は武装した僧侶である僧兵を従え、乱暴を働いていった。
平泉 しかし、その一方で国風文化は地方に波及し、またさらに発展していった。地方に花開いた国風文化で特に有名なのが、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)である。東北地方に勢力を築いたのが、奥州藤原氏という集団であった。藤原清衡(1056-1128)が創建した中尊寺の金色堂は、全体に金箔を施したもので、当時の繁栄を物語っている。奥州藤原氏は独自に宋や沿海州と貿易をしており、マルコポーロ(Marco Polo, 1254-1324)が『東方見聞録』の中で日本のことを「黄金の国ジパング」といったのも、この中尊寺金色堂のうわさからだと言われている。
絵巻物 絵巻物が発達したのもこの時代である。流麗な大和絵と源氏物語を融合させた『源氏物語絵巻』、平家の繁栄を祈って厳島神社に奉納した『平家納経』などが有名である。海上に浮ぶ厳島神社の社殿の様式は、平氏政権のころに作られたもので、現在の建物は再建であるが、様式は当時の姿を伝えている。
また、絵画では『鳥獣戯画』が成立した。動物を擬人化して面白おかしく描いており、日本の漫画文化の元祖とも言われている。
(文責:黒田秀教)
❀ 台日の比較 ❀
七夕と婚姻
中国の七夕伝説が日本にやってきたのは、奈良時代らしい。そして、日本の古い伝承と融合して、平安時代から日本の七夕という風習ができていった。台湾・中国・日本の七夕は、基本的なストーリーは同じである。では、天の川を渡るのは織女だろうか? 牽牛だろうか。
実は日本では、天の川を渡るのは牽牛である。これは奈良・平安時代の日本の婚姻形態が理由である。中国では古い時代から、女性が男性の家に嫁いでいった。しかし、日本では、男性が女性の家に通ったのである。こういう婚姻形態を、妻問婚という。
男女とも基本的に自由恋愛であったが、妻の両親の許可が必要であった。だからこそ、男性は和歌によって女性に気に入られなければならなかったし、女性が嫌がれば、男性はあきらめるしかなかった。
また、こういう婚姻形態であったから、離婚という概念もあまりなかった。男性が来なくなったら、自然と縁が切れたとされていたのである。
余談だが、日本史上では政治を行った女性が何人も出てくるし、そもそも最高神は女神である。豊臣秀吉や源頼朝のように、正妻には生涯頭が上がらなかった権力者も多い。このように日本の女性も、実は従順というだけではないのである。
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
1. 比叡山延暦寺は(a. 最澄 b. 空海 c. 空也)が開いた寺院である。
2. 平安時代は密教によって広まった(a. 葬式 b. 権現浄土 c. 加持祈祷)が盛んに行われた。
3. 国風文化が生まれてくると、男性貴族の装束として(a. 十二単 b. 束帯 c. 着物)が誕生した。
4. 藤原頼通が建立した(a. 金剛峰寺 b. 東寺 c. 平等院)は、鳳凰堂で有名である。
5. 紀貫之が編纂した(a. 古今和歌集 b. 白氏文集 c. 懐風藻)は、初の勅撰和歌集である。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
6. 空海は嵯峨天皇、( )とともに日本三筆と呼ばれる能書家であった。
7. ( )によって、神道は仏教に隷属するようになっていった。
8. 国風文化によって貴族の邸宅建築様式として( )が誕生した。
9. ( )が書いた『源氏物語』は日本古典文学の傑作として高い評価を受けている。
10. 平泉には( )によって、黄金で塗り固められた中尊寺金色堂が作られた。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
11. 平安時代の仏教の変化についてまとめてみよう。
12. 浄土教や陰陽道が盛んになった背景を説明してみよう。
13. 平仮名と片仮名の違いは、どういうものだろうか。
14. 菅原道真が北野天満宮に祭られたのはどうしてだろうか。
15. 国風文化が誕生した経緯をまとめてみよう。
参考文献
大津透『道長と宮廷社会(日本の歴史06)』、講談社、2001年4月
保立道久『平安時代(日本の歴史【3】)』、岩波書店、1999年11月
宮崎博史『神道史概説』、そうよう、2000年2月
辻善之助『日本文化史 第二巻平安時代』、春秋社、1969年11月